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三日がかりでNYへ、アメリカとは大きな国だと思った。
私が渡米したのは1957年1月25日でした。ミノルタに就職して4年半。就職したのは、社長の「これからは世界の海を渡らなくて」という考え方に惹かれたからでした。ミノルタの社長は、当時からグローバライゼーションを考えていたんですね。まだ若造だった私は、大きな夢を描いてアメリカに向かいました。ミノルタがアメリカに最初に進出したのは1954年。最初の人が行ったのは船です。私は、飛行機でしたが、ダグラスDC6Bのプロペラ機でした。夜日本を出て米空軍基地があったウエキ島に朝到着し給油。2時間後に離陸して夕方ホノルルに着き、夜中に離陸。朝の9時にようやくサンフランシスコに着きました。
日本は寒かったのに、サンフランシスコはからりと晴れて暖かかったです。空港も日本と比べられないぐらい立派でした。同乗者、日本の商社の人間が、サンフランシスコで一泊するというので、いっしょにダウンタウンまで行きました。当時は1ドル360円の時代です。お金がないので、グレイハンドのバスに乗りました。確か空港からダウンタウンまで25セントだったと思います。そのあと、1人で空港に戻り5時の飛行機でシカゴに飛びまたそこで給油、そしてようやくニューヨークに到着した時には、夜の2時でした。
3日かかってニューヨークに着いたのです。先に赴任していた人たちが4人ほど空港に向かえに来てくれました。「どうだったか」と聞くので、「サンフランシスコでダウンタウンに行きおもしろかった」というと怒られました。「迷子になったらどうするんだ」と。自分では英語を試して意思の疎通ができたから満足していたのですが、みなさん考える視点が違ったようです。サンフランシスコは暖かかったのに、シカゴやニューヨークは雪が降っていました。アメリカとはとても大きな国だと実感しました。
マンハッタンの96丁目に住んでいました。ある夜パンパンパーンと音がするので行ってみたら人が殺されていた。あの辺りは映画「ウエストサイドストーリー」の世界でした。自分の身は自分で守ることを覚えました。
カナダに赴任
その後、カナダに赴任しました。北アメリカは北に行けば行くほど寒いわけですが、女性が透き通るような肌をしており、北に行けば行くほど、寒くなる一方女性もきれいになるので、何も苦になりませんでした。カナダには、まだメーカーが進出しておらず、日本人は銀行や商社の人間がほとんどでした。その当時、カナダでは、外国人を受け付けていなかったのですが、カナダの政府が移民局の書類をどうも紛失したようで、現在、この国にいる外国人には、自動的に永住権を渡すということになりました。
私は、カナダにも大きな市場がある。このままカナダに骨を埋めようと思い、会社に交渉し、永住権の申請をしました。永住権の申請中は海外にでれないわけですが、どうしてもニューヨークに用があり、一時離国の手続きを取りニューヨークに行き、カナダに戻ったところ、手続きの手違いで入国拒否をされ、そのままニューヨークにとんぼ返りさせられ、カナダ永住の夢はそこで発たれました。
初めて帰国したのは渡米から6年半後。独身は普通3年で帰国するのに、私は帰してもらえませんでした。社長が、「お前はアメリカにいなくては駄目だ」というので、そこで「アメリカ人と結婚しなければならなくなる」と訴えたら、見合いのためにと、一時帰国させてくれました。ただし、いつも条件付きです。アメリカはクリスマス戦線が一年で一番の勝負です。そのために、クリスマス戦線が終わってから帰国しろというのです。卸し業ですから11月の末にはクリスマス戦線が終了しています。そして、私は日本に帰りました。帰国したら伊丹空港が掘っ立て小屋でびっくりしました。改めて日本とアメリカの違いを実感しました。あと、女性がみな小柄なのにも驚きました。すっかり忘れていました。
帰国すると、営業、製造、その他、各部門からひっぱりだこでした。みんなアメリカの情報を聞きたいのです。そして、見合いどころではなく、見合いも、百貨店の食堂でランチに済ませたのです。5人と見合いし、そのうちの1人と結婚することにしました。そして、社長に挨拶に行くと「展示会が迫っているのですぐにアメリカに帰れ」と言うのです。そして「結婚は来年」と言われてしまいました。あの当時は、会社が一番で自由というものがありませんでした。未来のワイフをおいて、私は1人アメリカに行きました。そして、翌年、クリスマス戦線が終わったときに帰国し結婚し、展示会が迫っているので、またあわてて、今度はワイフといっしょにアメリカに戻りました。ワイフの父親はえらく怒りました。社長にも詰め寄りました。社長は、「3年で帰すから」と怒っている父親を説得しました。私たち2人はこうして、その当時の勤務地であったロサンゼルスに戻ってきたのです。
メイドインジャパン
最初に渡米した時には、日本製品は「安からろう悪かろう」という認識が強く、テレビでボブホープが、物が壊れると「メイドインジャパン」と言って笑っていました。カメラ店に行って、市場で一番良いカメラですと言うと、店の人がライカなどのドイツ製を持ってきて、「一番いいというのは、このような製品のことを言うんだ」と言われ笑われたこともあります。ですから、通産省の傘下に日本写真審査会という組織を設立しラベルを作って日本製品の品質を保証しました。60年代になると日本製品に関する認識が変わりつつありました。一眼レフを生産しだしたのもその頃です。さらに交換レンズなどアクセサリー関係といっしょに売り出しこれが売れたのです。
私は、西部でまず直販を始めましたが、販売組織を作ったりしてそれは楽しかったです。最初は、ディストリビューターを使っていましたが、ある事件がきっかけで東部ではメーシーズ、西部ではホワイトフロントなどの大手小売業者が80万ドル分の商品を卸し値で投げ売りをしたのです。カメラ店からは毎日クレームが来るし、2度と投げ売りをされないようにするには直販しかないと社長に直訴しました。でも、ニューヨークの直属の上司が反対しまして。というのも、同業他社が軒並み直販に手を出して失敗していたのです。
でも私は人脈もできているし、直販をできると確信していたのです。そこで、西部だけでもディストリビューターと並行して始めることになりました。その時に条件をつけました。1年経ってディストリビューターより実績があがっていたら、ディストリビューターを切ってほしいと。蓋を開けてみたら、直販の方が50万ドルぐらい上だったのです。その後、シカゴ、ニューヨークと次々に直販に踏み切りました。
次は工場だと、ロスの郊外の土地を候補地に交渉していましたが、73年にオイルショックが起こり延期。「もう、ここにいる必要もないから日本に帰して下さい」と頼んで75年に、12年ぶりに帰国しました。すると社長は、「君にはかわいそうなことをしたから、何でもやりたいことをやらせてやる」と言ってくれたので、ミノルタの事務機販売会社「福井ビジネスマシン」を設立しました。
地球国の中の、アメリカ村、日本村
娘は小学校6年生でしたが、地元の学校に行くと校長先生が「この子は日本語ができないから1年生から始めてください」と言うのです。そこで、そんなこともできないので、インターナショナルスクールに通わせました。3年後、会社も黒字になって、娘も学校になじみうまく行っていましたが、娘は学校が終わった後も遊ぶのはインターナショナルスクールの友達ばかり。それを見ていた家内が、「子供のためには、生活の場はアメリカになくては」と言ったのです。そこで、78年、娘を高校に入れるために再渡米し、カメラ関係の輸出入会社「インターナショナル・コンセプト」を設立しました。
娘はUCLAに入り、私も永住権を取りました。その後、娘も結婚し、私は日本に帰ることを考えましたが、ワイフが98年に脳卒中で倒れ麻痺が残りました。車椅子での生活はアメリカのほうが環境が整っていましたので留まることにしました。ただ、骨は日本です。両親が亡くなったときに福井家代々の墓を買ったから、そこに入ろうと。国境という考え方はしないです。地球国の中に日本村があり、アメリカ村がある。どこに住もうといいじゃないかと思っています。
私は95歳まで生きようと思っています。ただ、生きているだけでなく、元気にぼけのない状態でです。そのために、心身とも鍛えなければなりません。ウォーキング、ジムでのウエイトトレーニング、エアロビクスは欠かせません。仕事も一生現役でいるつもりです。
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