歴史は時代の権力者によって書き替えられていくものです。企業は当然進化し、変わっていかなねばなりません。いつの時代でもパイオニアが出てきても良いのだが、猛烈社員、プロサラリーマン、花の駐在員が、働かれた時代のMOPCメンバーはカメラ、複写機の二つの柱の草分けであり、誇り高き国際企業の先兵なのです。純粋なミノルタスピリットを持ち、どんな挑戦でも苦にしないこのメンバー達が道を創ってくれたベースがあってこそ、現事業が存続していけるのは言うまでもない。
さて、当時の体験から多くの思い出がつきることはなく、走馬灯のようにかけめぐる。私の当時の営業部輸出課時代に直貿を主に経験し、MH駐在員となった時点では、兼松現地法人を利用しておりましたが、本社に対しては常に次のステージとして、OWNの確立を提言していた。
ミノルタが、ハンブルグにオフィスを構え、現地法人設立直後に任期を終え帰国し、本社では海外向け事務機の立ち上げに取り掛かった。駐在中にDrメトカルフェを訪問し、静電液体現像方式の特許を調査したり、パリのセロハン社ではジアゾーの複写機を売り込みに行き、同社の重役から、“貴社は事務機工業会のリストにない”と言われたが、二百台のコピーペットを受注に成功し、初の欧州向け輸出となった。
ロンドンでは市場の期待は乾式ジアゾ、更に大市場を予測されている静電気複写機とか自動車の様な耐久消費財で外貨を稼げるには至ってなかっただけに感激もニュースバリューも今では考えられないものです。
昭和43年ごろにはアフリカの一部、パキスタンを除く全世界の販売代理店は設営され、北米は深江憲輔さん、中南米は丸紅、欧州、アジア、オセアニアは楠本定平さんを上司とし、ロンドンからスイス、メッセルリ社を訪問したのが始まりです。
台湾代理店、震旦行の設営には慎重に二年間かけた。二回とも真夏でぼろタクシーには、クーラーもなく、ホテルのイエローページで候補をリストアップし、あちこち回ってベストなパートナーを探したと思います。この頃には、事務機特機事業部も出来、無理のない余裕のある行動ができる時代になっていた。
昭和40年に取り組んだ帰国直後の事務機輸出は無理に無理を重ねモノにして行った猛烈社員を絵に書いた様なものだったと思います。無理は後日にか必ずいろんな問題として、ハネ返ってくると知りながら、それを覚悟で推し進めた結果が今日に在る複写機事業部を存続させたのです。
昭和44年(1969年)頃には、海外事務機器販売網は確立されていて、BM工場も完全に軌道に乗っていて、ただ市場に受ける商品を流せば良いだけになっておりました。1972年に東南アジア、オセアニア地域での受注につき、出張報告書を当時の田嶋一雄社長にしたついてでの話として、マレーシアへの日本企業の投資ラッシュについてもご報告申し上げました。「ミノルタが海外直接投資で拠点を持つなら最適地です。」「そうか、君やってくれるかね」と社長室で二人だけの会話がありました。
その頃の私は、欧州、アジア、オセアニア、中南米各国を一通り出張経験もあり、各国間の国際比較の感覚は既に培われ、その変の知識は持っておりました。正直言って、本件を企画管理部へパスし、逃れたいと言うのが本音でしたが、結局、本件の調査から始まり、政府へのパイオニア申請、政府との交渉、土地の選定と購入、現地法人設立、建設工事等の為に8回もの出張を重ね、1973年企画管理部へ移籍後現地に赴任となった。?の廃鉱の跡地をフリートレードゾーンとして馬政府の外貨投資誘致に乗った訳だが、その地面に一人立った時の悲壮なチャレンジの始まりを実感として旨く表現することは、とても難しいことです。
赴任後、一時帰国の折り、社長に「マレーシアは最適地であることは確かで、会社が出来あがる3年後に着任すれば天国のようなところです。」とつい本音を言ってしまった事を記憶しております。ミノルタは本体の資本金24億円で2億規模の海外直接投資ですから、立ち上げまでに社内の抵抗と圧力を私一人が背負う事になり、石油ショックも重なり、苦悩の多い数年を味わいました。ただ田嶋一雄社長(MM会長)の「腰を据えてやって行こう」といった意味の励ましのお言葉もあってこそ、ミノルタ最初の海外直接投資のき礎を築いていくことが出来たのです。
1977年〜1978年頃には、苦賃稼ぎもできるようになり、パイオニアステータス企業としての仮許可から正式許可も取得した。その内容は、天下の松下さえ取得できなかったぐらいのもので、日系企業でも七不思議のひとつと言える好条件を盛り込まれたものです。
植民地の先例を受けたマレーシア人の扱い方については、プレッシー社のイギリス人とオランダ人から何度も足を運び教わったノウハウと海外経験で培った国際感覚を活かせた結果でもあります。この様にMM環境は最高の政府条件と立地条件に恵まれ、現地人もすっかりMMのカラーに染まり、その後はただ製造技術さえ持ち込めば回っていけるようになっておりました。1980年、丸7年間のMM勤務を終えた。
特にミノルタにとって残念なことは、マレーシア政府から勝ち取ったMMの最高ステータスの有効活用にはあまり無神経な後継者ばかりでした。これで、ミノルタ本体の利益も百〜二百億は簡単に変わっていたと思われます。又、ハニーウエル問題からのダメージも半減できたのではと残念に思えてなりません。はたけばいくらでもでてくるノウハウを持っているのはMOPCメンバーの特徴と言えるでしょう。それよりも在マレーシアの同業某社にMMのパイオニア条件等を盗まれ、流されて流されているのはどう言う事なのだろうか。
最近、スメタナ作曲「わが祖国」を聞き、1964年プラハへ出張したことを思い出す。チェコの購買官は女性が多いことで、兼松に同居していた某メーカー駐在員から、「ナイロンのストッキングを持参」を教わり、見事成功。その直後、8ミリカメラをチェコから受注したとか・・・。