1957年6月ノースウエストのプロペラ機で渡米。途中一時間ほどで着いたところで何処かわからず、窓から外を見ると全部英語で書いてある。アメリカに着くには早すぎるし、一体何処なのだろうか。機内のアナウンスで三沢と耳にした。三沢米軍基地に天候が悪くて下りたことがわかった。
一時間程で飛び立った。次に下りたのが地図にも無いアリューシャン列島小さい島。島全体が米軍の空軍基地でシャーマと言う島で、ここで給油するために一時間ほど止まることになり、全員小さい建物に案内された。中にはテーブルの上にその当事は日本では見たこともないローストビーフやハム、ターキー等がスライスされて並んでいるのに驚き、一つずつ味見をしながら食べたが、ローストビーフの赤肉は食べられなかった。
この島を後にして、シアトル、オレゴン州のポートランド、そして、シカゴを経由し、ニューヨークのアイドルワイド(今のJFK)に着いたのが夜中の1時。日本を出てから約24時間の旅。この間ほとんど寝ていないのに、先輩連中に待ちの案内に連れ出されたが、何しろ24時間も座ったままのためか、便秘になり、トイレに行って座っても出ないので、日本式に便器の上にあがり、用を足した辛い一日でした。
地下鉄駅の公衆便所に入っても大きな人が横に立つと、こちらを覗かれているようだし、大便の方は扉がないので出るものも出なくなるし、全体が小便臭いのには参った。
さて、仕事の方は日本で慣れているものは問題なかったが新しく発売になるカメラは、マニュアルも他のインフォーメーションもないので、カメラの開け方が判らず、ましてや直し方なども判るはずがない。判らないときは、電話で駐在している福井氏、ロス駐在の加藤氏に聞き、「そのノブを引っ張れば開く」「ボディのどこそこを叩けば動く」とお互いに情報を交換したものです。
日本を出発前に堺工場で、一日だけのトレーニングを受けたが何の役にも立たなかった。それは一から教えてくれたのではなく、カメラの青写真の部品表を眺めさせられていただけで、世の中にこんあトレーニングもあるかと思う反面、よくも一日中カメラを前に座っていたものだと自分乍その忍耐力に感心しています。
生活は給料が安かったので、もっぱら自炊、スパゲティで焼き側、習字の筆を竹のすだれで、海苔巻きを作ったりと日本的なものが食べたい一心で工夫もしたものです。休日は給料の関係でどこにも行けず、車も買えず、もっぱら電車とバスを利用し出かけました。裏窓見物も楽しんだものです。
当事はボーリングの盛んな時で、業界で毎月大会を開き、このために夜遅くまで、休日には一日中練習し、腕も上がり、当事、アベレージ198(今は120)ぐらいまでなった事が自慢の一つです。
考えてみれば43年前の当時を思えば苦労もしたり、失敗もしたが、我が人生の良き時代の1ページだったと記憶しています。これは、1957年から1960年までの4年間です。