ミノルタの戦士たち




 西田進駐在員


米国(ニューヨーク)赴任

1955年5月(昭和30年)、帰国1959年(昭和34年)戦時中の英語の科目が無かった少年時代の私は、なぜアメリカに派遣されたのか、分からない。誠に名誉なことであり、当事のノースウエスト北回りの初航路の一番機でした。4つのプロペラ、真っ赤な翼、東京ーアンカレッジーシアトルーニューヨークと給油、乗り換えに未だ何時間掛かったのか覚えていない。

ニューヨーク到着後の最初の仕事は着荷検査でした。当事のオードコードと言う日本カメラを代表する初輸出品であり、当事、ブルックリンにあるFRコーポレーションの2階へ木箱梱包が解体されて運ばれて来た。まず、カメラは動いているのかチェックである。

この当事、最悪な故障に出くわした。約半数に近い製品がシャッターが切れない。この原因は、シャッター羽根に油が漏れ、粘りついている。この修理作業は、何日間かかったかは、記憶にないが、11月に中邑さんが、NYに赴任して来られ、その現場を訪れたことは覚えています。

この作業をするために、アルバイトとして、深江憲輔さん、ジョージ寺崎等に助けられ、米国市場へ出荷したことがありました。この故障は、後に続く35ミリ、コンパクトカメラA,A2にも発生、メカニックシャッターの弱点に悩まされた。当事、ローライコード$246、ミノルタオートシャッター$99であり、$1=360円時代でした。

欧州(西ドイツ、ハンブルグ)

赴任1961年5月(昭和36年)帰国1965年6月、丁度、東京オリンピックの開催の年でした。初代社長、田嶋一雄氏がアメリカ回りでハンブルグを訪れて下さった。その時、社長がおっしゃっるには今晩、君の家で、テレビを見せて欲しいと申され、当時主席駐在、藤井鉄而、鈴木三郎さんの四人で映りの悪いモノクロテレビに観戦したことがありました。その時にわかったのですが、社長は東京オリンピックの開催委員をしたとの事でした。

ヨーロッパ滞在時代には、幸いにも駐在一年後に家内を送ってくれた。当時、商社マンの妻帯者でも単身赴任の多い時代、メーカー駐在員で妻を迎え入れる事ができた。お陰様で、結婚3年目でドイツで長女が生まれた。その後、社長が申されたのは、水も変われば子供もできる。とのことでした。その娘が今年で38歳になる。当時の事を思い出せば、ハンブルグには、レーバーバーンがあり、長期の単身赴任はいけないと、日本サイドで考えてくれた様に思います。

駐在当時の苦楽談は沢山ありますが、またの機会にさせて頂きます。




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