アメリカヨーロッパを又にかけ活躍した岩佐駐在員
● 日本出発
私の海外駐在は1691年4月から始まった。それより半年前ほどから先輩諸兄からトレーニングを受けていました。親切な先輩達のお顔、声などが今尚脳裏に有ります。まだ肌寒い4月、大阪発東京行き急行“つばめ”に乗車時、田嶋一雄社長からミノルタ初の8ミリカメラ、ズーム8のサンプルをお預かりし最重要品として肌身離さず持参しました。それは一際目立つカラーボディに丸みを帯びた当時の最新デザインだった。
● ホノルル空港のバニラアイスクリーム
給油で立ち寄ったホノルルで深夜にもかかわらず、フラダンススタイルの美女達から、歓迎のレイを首にかけてもらい、ああこれが映画で見たレイやハワイの美女か、と少し固くなり、おそらく顔が引きつっていたことと思う。湿気がありむっとする様な暑さだった。そこで行列が出来て、なんとアイスクリームの配布、幾らかの種類があったと思う。私はバニラアイスクリームと言って食べてびっくり、その味と舌触り、今まで口にした事のないなんとおいしいものがあるのか!と思った。サッカリンで甘味をつけたアイスキャンデーやカキ氷しか知らない訳だから当然です。
● ニューヨーク駐在、ミセス・セーラ・コレテイスとジョン・F・ケネディ大統領
駐在地ニューヨークでは幸いにも下宿先を福井さんに紹介してもらった。そこには、アイリッシュ系、ユダヤ系の2人の老婦人と下宿人の福井さん、こうのさんの4名が住んでおり、そこへ私が加わった。部屋は6畳くらいでベッドと机があり私にとっては十分だった。アイリッシュ系のセーラ女史は大のケネディファンで、大統領のテレビ演説がある毎によく説明してくれた。非常に疲れているとか、体調まで判っているようだった。当時はあのキューバ危機、陸の孤島となった西ベルリン、ベトナム問題等々、切迫した問題について大統領が直接テレビで国民に語り掛ける。これがアメリカなんだなあと思った。
1962年2月、カゼを引いて高熱で、1日中意識がはっきりしないほど寝込んでしまった。この時、あのグレン中佐がフレンドシップ7で宇宙飛行をされた時だった。カゼの私にセーラ女史が何度となく作ってくれた解熱ジュースのお陰で、2日目にやっと我を取り戻した状態になった。この解熱ジュースは今では我が家の特効薬として活用させてもらっている。オレンジ、レモンをしぼり、ハチミツを加える。彼女はこれを温めてくれた。また朝食や休日の昼食、洗濯迄してくれて我が子の様に扱ってくれ、有り難かった。LA転勤後も母の日は忘れなかったが残念にもLA在任中に亡くなられたと後で知った。
● Dr.マーテイン・ルーサー・キングJr.
彼は黒人の公民権運動の先頭に立って南部アラバマ州を中心に街頭デモや集会を行っていた。あの堂々とした態度、ゆったりとした語りかけ、人権と言う何人にも公平であるべき事に自信と信念を持った行動で有るということを、テレビを通じ感銘を受けた事を思い出します。人間を超越した牧師さんだった。
● ニューヨーク市の停電
勤め人が帰宅する夕刻に事は発生した。我々も帰り支度をしている時で、街全体が真っ暗になった。信号、街頭、ビル等明かりは無く、車のヘッドランプによる明かりだけ、9階から階段のてすりを頼りにヘッピリ腰でミセス・デイルマンの手を引きながら降りた。それからが大変で交通機関は無い。唯一の中邑社長の車で遠い人達から順に送って貰った。街ではいろんな人が交差点やビルの前で懐中電灯を手に交通整理をしていた。さすがこれがアメリカなんだなあ、フウオ・ザ・ビューピルのボランティア精神はこれなんだ!と感動した。
● ロサンゼルスへ転勤
1962年暮れ、住み慣れたニューヨークからLAへ転勤した。その時すでに福井さんは、西部7州を飛び回っておられ、言うまでも無くこれは直販体制を作る大目標があったからです。LAへ転勤後暫くして、ニューヨークから簡易デモカウンターセットが丁度車のトランクに入るサイズで、それもケース入りで送られてきた。私はそれをシボレーのビスケーン(車の名称)のトランクに積み込み、福井さんが他州を飛び回っている間、サンフランシスコからLAに至るカリフォルニアのスーパーや小売店へよく出向いた。その催しは新聞広告やラジオで流されていて、特に人の集まりやすい週末は仕事だった。そんな時、ガソリンステーションで日本的メロディを耳にした。なんとスキヤキソング(上を向いて歩こうのアメリカ名)だった。この曲を聞く度、当時の状況を思い出します。
当時のハイウェーや街では日本車は見られませんでした。GMの工場で1分数十秒で1台完成車が出来ていた時代で、何度か見学し、カメラより早いベルトコンベアに驚いた。
1963年11月22日金曜日LA時間12時過ぎ、昼食に出ようとした時、ニュースが飛び込んで来た。ダラスでケネディ大統領が銃で撃たれたと言うもので、その後死亡と発表されたが信じられなかった。これからアメリカはどうするのか、ジョンソン副大統領はケネディ大統領のあのアクティブな言動と大きく異なった存在だった。翌日からの週末は街には車も少なく、市民は悲しみに陥り、家でテレビにかじりついて捜査の成り行きを見守っていた。葬儀では、家族、幼い姉弟の一挙手一挙動が全国民の涙を誘った。
1965年1月、LA南部のガーデナ市でLA支店が設立され、西部の直販業務が始まった!
● ニューヨークへ転勤
1965年春、慣れ親しんだLAからニューヨークへ転勤した。ロングアイランドのフラッシングにワンルームのアパートを見つけ、ここで帰国まで1年半を過ごした。
転勤後間もない夏、シカゴへ駐在員を派遣することになった。中邑社長の狙いは聞かなくとも理解できた。NY駐在のA君を派遣することになり、仕事場は中部地区代理店ホーンステイン社の本社内にセットすることになっていた。そこで私がA君に同行し諸準備をすることになった。空路NYを金曜日に発ち日曜日に帰る日程、ホ社オフィスマネジャーのMr.ジョウ・シイソウはイタリア系で言動の早い人で、LAで会って顔見知りになっていた。部屋、机等はすべて要求通りに了解してくれた。次は3日後の月曜日から仕事が出来るようにと細かな物品を近所の文具店で買いあさり、これでNYと同じような仕組みで仕事が出来るメドがたった。次はA君の住まいを見つける為土曜日の新聞から諸条件にあった物件を何件か見て回り、住んで気に入らなければ変れば良いとと言う事で決めた。これで何とかホ社内で仕事が出来るだろうと目安が出来た。私は日曜日夕方の便でNYへ帰任せねばならず、さてとポケット手を入れ驚いた。お金が無い!
自分の持ち金迄も明日から仕事をする為のオフィス用品を買って使ってしまっていた。A君はチェックを持っていたが明日からここで1人で生活するのだから貸して貰うわけには行かなかった。NY行き航空券は持っていたので、オハラ空港へはリムジンバスで行けるが、NY JFK空港からフラッシング迄は帰れない。とっさの思いで早速中邑社長宅へコレクトコールで電話し、幸い居られたので実情を言ってJFK空港まで迎えに来てほしいとお願いした。オーバーブリッジ(ジョージワシントン橋をNYからNJへ渡ったところを指す)から夜中、JFKまで車で飛ばして空港で待っていて下さった。
そして夕食は食べていないだろうと私のアパートの近所のカマボコ型食堂でビフカツを食べさせてくれた。ウエイターに 「この男は狼のように腹を減らしている、出来るだけ早く持ってきてくれ 」と催促してくれた。中邑社長がお宅に帰られたのは午前様だったろう。私の所持金は25セントだった。この夜はなぜか眠れなかった。
今度は1965年クリスマスイブを控えた12月23日夕、中邑社長が乗られていた車“IMPALA”をシカゴ迄運ぶ事になった。シカゴ駐在員のA君はNYに来ていたので、私が彼と共に運転していく事になった。ペンシルバニア ターンパイクをシカゴに向けぶっ飛ばして何時間か、横なぐりの猛吹雪になって視界も悪い。横のA君の不安顔を見てハイウェーを一先ず降りようとローカル線に入った。車の後輪は左右に振れ、すべりがひどくなってきた。恐くなったのか横のA君はこの辺でモテルに泊まろうと言い出した。やむなくモテルを見つけ車を降りようとドアを押すが開かない!凍りついていたのだ!翌朝、車のドアは当然開かない!このようにして、ナント、クリスマス休暇の3日間で無事シカゴ駐在員用の車を届けた事になる。シカゴ〜NYの時差は確か1時間だったと思う。
1966年夏、デンバーのハネウエル社のペンタックス社を見学し、LA経由で丁度赴任されてきたヘンリー田嶋さんの見送りまでを受け、帰国しました。
以上、米国駐在員時代のほんの一部の思い出です。
● ハンブルグ駐在
1972年6月現地法人発足から7年目のMHへ赴任した。ハンブルグ中央駅に近い交通の便の良い場所だった。当時既に、ドイツ国内は直販で他欧州各国、一部アフリカもMHの担当地域になっていて代理店を通じた営業活動をしていた。
赴任して間もなく、ミュンヘンオリンピックがあり、続いてフォトキナ。この言葉は聞いていたが、こんなにドデカイものとは想像もしていなかった。フォトキナ会場はケルン、ハンブルグから400Km位南、今回はMHのT氏のポルシェに同乗させて貰い、あのオートバーンを時速300Km近いスピードで、ぶっとばすのに巡り合えた。作りが良いのか道路が良いのかスピード感はあまり感じなかった。
さて、フォトキナ会場でのブースセットアップ、前もって資材の準備はされているとは言え、約1億円の商品をそれぞれの場所にセットし、且つ外から盗まれないようにせねばならない。大切な限りある商品故、絶対性が必要だった。
ショウに訪れるお客様は全世界からで、ドイツ直販、各国の代理店のお客様と皆、言葉、文化、習慣が異なる。MHだ、欧州だと一言で言われるが、その背景の理解者は如何なものか。即ち、担当範囲の広さ、多様性が目の前にあるわけです。日本から送られて来る商品の背景には種々の関係会社があり、家庭内職で母親が幼児を背負って作られたものもある、私はこれらを心に強く持ちつづけた。ショウの終わった後の片付け、これらの全てを日常業務と平行して、誰からも満足していただける様、貫徹せねばならぬ責務を必須としていたわけです。赴任して4ヵ月、初めてのフォトキナを経験し、いろいろな事がわかった。
続いて欧州各国にドイツ同様の直系直販会社がオーストリアをはじめに次々に開設されていきった。これらが重なった場合も当然前記同様に全ての面で結果は完全でなければならない。ハンブルグから東北に30Kmのアーレンスブルグは所謂郊外の城下町で緑豊かな良い環境にあった。ここからもう少し東へ行くと東西ドイツの国境線に出会う。
他に石油ショックによる週末運転中止、円建てへの切り替え作業など等昨日の事のように思い出します。次々に販路拡張している中で、生産性向上を目指したコンピュータ化も比較的早く着手していた。そんな中、1984年、帰国いたしました。
欧州のある国では大変な差別があった訳ですが、それは時の権力者による支配、搾取、護身等、何故それが起こったのか、深い歴史を持つ欧州に駐在して考える事がよくあった。若さ、純がそうさせたのでしょう。まだまだ思い出は尽きないがまたの機会に置きます。米国、欧州駐在中は多くの人達や先輩諸兄に物凄くお世話になり、会社からは種々の経験をさせて頂いた事に感謝しています。