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ミノルタと私の歴史 福井義直 1957年1月25日に、3日かけて渡米。その当時、ミノルタには5人の駐在員がいた。150 BROADWAYという、ウオールストリートの近くの商社KANEMATSU豪商の一角をミノルタは借りていて、そこで仕事を始める。その当時は、日本製は「安かろう、悪かろう」の時代。全品を検査しないと、市場には出せない状態で、平均して20%、多いときは50%の不良品がでた。NYのブロンクスにあるFR (RALLY FINK)CORPORATIONというディストリビューターで検品作業をしていた。当時は、しっかりした梱包もできずクレート(木装)につめて商品が送られたきたために、輸送時の振動がカメラに影響し、スーパーインポーズ(2重を1重にする機能)が狂ってあわなくなっているために、距離針の微調整が必要であった。 昔のミノルタはライカ等のレベルに品質的に追いついていなかった。ライカのカメラなどは、例えばビス一つにしても、きっちりと雄姪がかみあっていて、ねじを戻すと、プスーと音が聞こえた。ビス一つにしても大きな違いがあった。その当時のカメラメーカーは、やすりとハンマーで部品を調整してカメラを作っていた。ライカのカメラは芸術食の域であったが、日本メーカー製はその当時はまだ芸術から程遠いものであった。ライカは、ふいて磨けば磨くほど味がでる。ニコンを除いて日本製がコレクタブルから外されるのもうなづける。 これではいけないと、毎日日本の本社に報告書を入れた。ミノルタの創業者である田嶋一雄氏の明があり、すぐに品質改善のために、ヨーロッパから精密機器を購入して、品質改善に取り掛かった。 当時日本では、通産省の管轄の日本写真検査協会というものがあり、品質を保証するために、日本写真写真検定協会の合格のシールを貼って、品質をアピールした。しかし、実態は、検査員に昼間から酒を飲ませて、合格させていたような企業もあったほど、いい加減なものであった。 その後、品質も改善され、ミノルタは、NYを拠点に今度は西に進みだした。ちょうど、その頃から、カメラのほかに、時計(SEIKO)、車、家電メーカーがアメリカに進出してきた。その時代とは、1960年代、日本では、ようやく東名高速ができたころ。ミノルタが本格的にウエストコースとに進出したのは1962年頃である。その当時は、ニコンが品質的に一番、ヤシカが価格では一番、ミノルタは価格も品質もリーゾナブルな商品で、1966年には逸早く直販に入ることができた。 又、ミノルタは、その当時、スパイカメラと言われる小型カメラを神戸の甲南にある企業から技術を買い取り、ミノルタ16という超小型のカメラを作った。それをアメリカで販売しようとしたが、フィルムがない。本社より、映画の16ミリのフィルムを使用すれば良いではないかというので、18インチに切り、それと、手作業でマガジンにつめるようなこともやった。フィルムはできたがいいが、今度は現像ができない。お客様に満足していもらうように現像、焼付け専門ラボを指定し、それらのことが大いにその後のミノルタのマーケティングに○○することになる。 カメラ業界においては、ミノルタ、キャノン、ニコン、オリンパス、ペンタックス、マミアという企業ががんばっていた。ミノルタは直販体制を整え、アメリカ市場をを制覇したが、ペンタックスのカメラを販売していたHONYWELLによるパテント侵害の訴訟(オートフォーカス)により敗訴した。アメリカでは、正しくても負ける。なぜなら、審判制度がある。アメリカで起業を起こす時は、肝に命じなければならない。 ミノルタの名前は・・・ ミノルタは、田嶋一雄創業者が、千代田精工株式会社という会社を兵庫県の武庫川に設立したのがスタート。武庫川は、神戸に近く、ある日、社長の田嶋氏が六甲山に登ったところ、見渡す限り田が実っていてすばらしい光景を目の当たりにし、このように田が実るようにわが社も実れという願いを込め、また自分の名前田嶋の田を取り、1960年にミノルタと改名された。また、カメラはボディとレンズに名前がある。ライカはボディはライカ、レンズは沢山の名前を使い分けている。ミノルタはボディはミノルタ、レンズは、ロッコール(六甲山から命名)と呼ばれていた。その他、オリンパスのレンズはズイコー、ニコンのレンズはニッコールなどと呼ばれていた。 日本のカメラメーカーは、すべてドイツのカメラを原点としてその流れの中から始まったいる。ライカを原点としたのがキャノン、ツアイズを原点としたのがニコン、ローライを原点としたのがミノルタ、エグザクタを原点としたのがペンタックスである。
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