カナダ駐在時代の思い出

カナダ駐在時代の思い出  福井義直

カナダへの駐在を命じられ、赴任したのが1957年初夏、モントリオールの夏は、結構温度も上るし、しのぎやすい気候であった。ミノルタの代理店であった、アングロフォトの、フォガソン社長の計らいで、日系家族を紹介してくれていた。部屋を借りるのは、もちろんアパートだが、その土地の家族といっしょに住むということになると、ROOM & BOARDと言って食事付き下宿になる。

小さな一部屋をもらい、毎晩、会社から帰りレストランに寄って外食ばかり、別に日本食は恋しくなく、その当事は、一軒の日本食レストランもない、カナダで一番の大都市で、毎晩、カナダ食をおいしくいただいた。

9月に入ると、そろそろ冷たい空気が肌に心地よい季節、山々は冬支度に忙しそうだ。モントリオールの市内から、一時間も山に入ると、オレンジ色に紅葉したカナディアンメイプルツリーのトンネルだ。こうもすばらしい光景の中で、紅葉を満喫した。京都の嵐山に代表される日本で見てきた紅葉とは全然違う。

山があって、常緑樹の中に、紅葉した落葉樹が点々とつらなると言うのではなく、山全体が、黄オレンジ色に塗りつぶされる光景に、圧倒され、声がでない。冬に入ると、町のそこそこにある公園でスケートリンクができる。屋外スケートリンクだ。もちろん、無料で市民に開放される。

早速、スケートの靴を買うことにする。スケートの靴は二種類あって、フィギュアースケートと、アイスホッケー用があった。フィギュアースケートの靴のつま先には、ぎざぎざがあって、それを利用して、氷を蹴るが、アイスホッケー用は、つるるんとしている。滑るときは、スケートの刃全体を氷に密着させ、そのエッジを利用して滑る。始めは、なかなかうまく行かないが、三、四歳の子供でも上手く滑っている。そのまねをして、要領を得とくし、10分も滑っていたら、そのうち自然に体が上手く動くようになった。

簡易スケートリンクだけあって、周囲の立ち囲いはなく、ちょうど、鉄道の枕木で縦50メートル、横30メートルほどの広さに囲い、そこへ水道水をジャージャーと流しておけば、すぐに凍り、スケート場ができる。子供づれの親御さんで、賑わうのも、モントリオールの風物詩だ。モントリオールから北へ飛ばすと30分ぐらいで、ロレンシャン山の入り口に到達する。

そこは、スキー場の宝庫。あちこちにスキー場が点在する。スキー用具一式を整えるために、スポーツ店を覗く。1957年と言えば、メタルスキーの元祖、ヘッドが出始めた頃。安月給では手が届かない。店員が、始めは木製スキーで足を慣らし、上達してからメタルスキーに乗り換えれば良いが、スキー靴だけは、足首を保護する目的で、良い物を買ったらとすすめる。大枚59ドルをはたき、最高のスキー靴を買った。当事としては、60ドルといえば、月給の五分の一、よほど応えたのか、値段は70歳になった今でも鮮明に覚えている。

用具一式をそろえると、ゆうに150ドルを越えていた。それからというもの、毎週ロレンシャンに出かけた。最初は、スキーリフトに乗ると、遠くへ行ってしまうので、初心者はロープであがればと言うことで、ロープにつかまるコツを教えられる。いきなり岡の上まであがったのはいいが、さて、岡を滑り降りるとなると、どうやって止めればよいかわからない。とにかく、滑れば良いということで、斜面を横に滑って行くと、止まれないでしりもちをつく。そのたびに、スキーが足のふくらはぎを強くうつ。一日中、そんなことをやっていて、兎に角、ストップすることを覚えた。その日の感想は、何でこんな苦労して足のふくらはぎを紫色のあざで飾るぐらい、痛めなければならないのと自問自答する。

カナダの冬はすばらしかった。からっと晴れた大空、高速道路の両側には雪のかいた後にまた雪が積もって、高さ5メートルほどの壁ができている。その合間をぬって車が進む。ちょうどその頃ミノルタで、V2と言うカメラが発売された。サンプルをNYのオフィスから送ってきたので試写をする。

スキーにはいつも携帯した。シャッタースピードが、1―2000B 1/2000秒まである。35ミリ・レンジファインダーカメラで、ロッコールF2.0 45ミリが付いている。デザインも、しっかりしていて、すばらしいカメラだった。スキー場での試写は、動いている被写体は全て止まってしまう。ミノルタの技術部は、いつも他に先駆けて新しい画期的な発明を世に問いカメラを出していた。

これは、いつに田嶋一雄社長の意気込みが3000人の従業員に反映され、一丸となってフル回転していた時代でもあった。その時代は、ライカでも、1/1000ミリまでだったので、画期的なものであった。驚きは、車から撮った空を飛んでいるセスナのプロペラが、完全に停止していた。それらの写真を皆に見せていたら、中にはエンジン故障でプロペラが止まってしまったのだろうと言った人もいた。結局、2千分の1秒の価値が認められず、また、スーペーインポーズのレンジファインダーの不具合や、鏡胴止めの設計が問題であったのであろう。短命で終わってしまった。



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