|
|
|
|
|
|
|
|
|
日本では、営業担当する人のことをセールスマンと一言で片付けてしまうようだが、アメリカでは、同じ営業する人でも、セールスマンとオーダーテーカーに分けられ、完全に違った意味を持っている。セールスマンとは、”物”をバイヤーに人たちに、何のために、どういう目的で、そして、ユーザーに満足していただけるよう開発され、それが、競合品とどのように異なるかを相手の人に心から伝えることができる才能を持ち合わせている人を言っているようだ。 |
|
|
1957年1月25日に、3日かけて渡米。その当時、ミノルタには5人の駐在員がいた。150 BROADWAYという、ウオールストリートの近くの商社KANEMATSU豪商の一角をミノルタは借りていて、そこで仕事を始める。その当時は、日本製は「安かろう、悪かろう」の時代。全品を検査しないと、市場には出せない状態で、平均して20%、多いときは50%の不良品がでた。NYのブロンクスにあるFR (RALLY FINK)CORPORATIONというディストリビューターで検品作業をしていた。 |
|
|
|
|
|
|
|
入社して3年目頃には、ミノルタFLEXと言う二眼レフのレンズ焦点の調整をやっていた。被写体の光がレンズを通して、フィルム面に焦点を結ぶ。コリメーターと言う精密機械を使って無限大に置かれたテストチャートをフィルム面にすりガラスを当て、像をルーペで見ながら焦点を合わせる。人間の目と言うのは、果たしてどのぐらいの誤差まで見分けることができるのか。 |
|
|
|
|
|
|
|
カナダへの駐在を命じられ、赴任したのが1957年初夏、モントリオールの夏は、結構温度も上るし、しのぎやすい気候であった。ミノルタの代理店であった、アングロフォトの、フォガソン社長の計らいで、日系家族を紹介してくれていた。部屋を借りるのは、もちろんアパートだが、その土地の家族といっしょに住むということになると、ROOM & BOARDと言って食事付き下宿になる。小さな一部屋をもらい、毎晩、会社から帰りレストランに寄って外食ばかり、別に日本食は恋しくなく、その当事は、一軒の日本食レストランもない、カナダで一番の大都市で、毎晩、カナダ食をおいしくいただいた。 |
|
|
|
|
|
|
|
ディズニーランドでの、観光客は、ほとんどがコダックのボックスカメラでシャッターを切っていた。90%は、安物の非常に初歩的なものだった。勢いがあった当事のスタッフは、ミノルタで生産していたSR2一眼レフや、ミノルタフレック二眼レンズなど、高級カメラの市場は大きいと益々はりきったものだ。セールスマンの質とは、おもしろいもので、相反する考え方をする。 |
|
|
|
|
|
|
本欄に掲載の記事・写真及び映像や音声などのストリーミングコンテンツの無断転載を禁じます。すべての内容はアメリカ合衆国及び日本国の著作権法並びに国際条約により保護されています。 |