ミノルタとのコラボレーション 福井 義直


福井義直の写真


ミノルタが一時ライカCLと言うカメラを作っていたのをご存知の方も多いだろう。1973年、LEITZ WETZIARのデザインで、SUMMICRON F−2/40ミリ付きであった。

その頃、私はミノルタのアメリカ第一号の工場建設計画で忙しく、このライカ計画にはタッチしていなかった。家も、ロサンゼルス空港南のPALOS VERDESの半島の岡に立て、ミノルタの工場をIRVINE INDUSTRIAL PARKに作るべく腰をじっくりと据え、将来の計画を練っていた。

ちょうど隣にANDY PARKERさんの家族も家を建て、懇意にさせてもらっていた。或る日、ANDYが最近ライカCLと言うカメラが出てそれをミノルタで作っているミノルタCLで、ミノルタの優秀なROKKOR付きだが、それを私が日本に行くとき買ってきてくれないかとの頼みがあった。

彼はライカファンで、何台かのライカのコレクターでもあって、その中にミノルタ製ライカを加えたいと言う。1957年、渡米私が、NY駐在の時、日本のカメラはまだまだカメラ界では認められていなかった時代。何回も何回も本社営業本部へ手紙を書き、ライカやコンタックスのドイツ製カメラのアメリカでのすばらしい活躍ぶりをレポートし、その基礎になっている品質についてミノルタの改良を訴えていたのが、今、ここでそのライカをミノルタが作っていると言う現実を見、わずか15年ほどで、ミノルタの品質をここまであげてこられた田嶋社長、その後ろにあるミノルタの技術陣に対して頭が下がる思いであった。

その後、ミノルタとライカとのコラボレーションが、実にいろいろな技術改革を生み、1982年頃には、M−6にミノルタのライティングシステム、M−7にはミノルタのエレクトリックシャッターのノウハウが生かされている。世界のカメラの最高峰を行くライカといっしょになって、新しい技術を生んで来たミノルタも、ここへ来て、デジタルカメラの新時代を向かえ、いささか精彩をかいている現状を見て、時代の流れの速さに戸惑いを感じている。

田嶋先代亡き後、その当時吉山技術部長、和住工場長など、ミノルタの技術を支えてきた人たちも現役を離れ、急激に求心力を失った感じだ。ミノルタのOB会の中の、ライカとのコラボレーションに関与されてきた人たちが時々集まっていると聞く。それほど、ライカに対する田嶋社長の想いが深かったのだろう。

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