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コレクタブルアクセサリー 福井 義直
1959年からセールスマントレーニングをすることになりました。アメリカ東部、中部、西部、ハワイに約100名ほどのセールスマンがおり、その頃のミノルタカメラのディストリビューターであったレイグラム、フォースティン、ウエスタンムービーサプライ・オブ・ハワイで働いていたので、そのセールスマン達をトレーニングしていくのですから、アメリカ中を飛行機でかけまわっていました。
それが1965年まで続き、直販体制を作るきっかけとなったのは、自然の成り行きでもありました。その頃ミノルタは、MINOLTA 35?Bを堺工場で生産していました。ライカをモデルにした35ミリ、レンジフィンダーカメラであります。ところが、時代がSLR(Single Lens Reflex)の時代に入り、アサヒ工学が、アサヒフレックスから、アサヒペンタックに移行していった時代でもありました。
ペンタプリズム(5角形プリズム)が開発され、カメラ界に新風を吹き込んでいました。ミノルタも、「すぐこれからのカメラ業界は、この機種が主力になる。」ということで、まず、出したのがSR-2と言うカメラであります。そして、この機種を中心にアクセサリー関係を充実して、ライカシステムのような万能カメラシステムとまでは行かなくとも、それに近づけるということで、ミノルタシステムを築いていったのであります。
ライカでは、1925年頃から、生産しだしたライカAモデルから、ユーザーの要望に応じ、次から次へとアクセサリーを作り出し、フォトグラファー達に応えていました。ライカの初期のモデルで、まだレンジファイダーがカメラに組み込まれていない時代には、単体のレンジファインダーをアクセサリーとしてつくり、カメラと被写体の距離を正確に測り、ピントを合わせる方法を完成したり、交換レンズ群が増えていくにつれ、ワイドアングルレンズから、テレフォトレンズまで、十分対応できるファインダーの中に、被写体が収まる枠をつけたビューファインダーをいくつも完成していきました。
ライカのすばらしいところは、写真術に必用なものが要求された場合、それに応じて、一つ一つが、技術的にもデザイン的にも、21世紀の現在でも通じるアクセサリーを完成していったことであります。
それは、数え切れないほどのアクセサリー群を作り、それぞれがコレクタブルとしての価値を持った美品でもあります。今後この方面で、時に応じ、詳しく説明を加えて行くことにして、ここでは、なぜ、ライカがクラシックカメラ及び、コレクタブルカメラシステムとして、世界のカメラファンの羨望の的になってきたかの一端を皆様に紹介させていただきました。
話しは戻ってミノルタでもSR2の出現で、ライカのようにアクセサリーを充実することになっていったのです。そのSR-2のシステムを持って、アメリカ中のセールスマントレーニングをやることになりました。SR-2以前のミノルタカメラは、単体としてカメラ店に卸していたので、それほど深く広くカメラとしての知識がなくとも、マーケティングできたのですが、アクセサリーが増え、システムとしての価値を知ってもらうためにも売り方も、当然、ノウハウが必用となってきます。従って、その価値がわからないセールスマンの人たちには、猫に小判であったわけです。その間、いろいろなエピソードがありました。とにかく、アメリカ中を飛行機で飛び回っていたのですから。
その時は、あまり飛行機で飛び回っているので、ユナイテッド航空のセールスマンの訪問を受け、100万マイル飛行の表彰を受けたのもその時期です。これからも時々、それらのエピソードを私のホームページで掲載していきたいと思います。
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